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三木谷浩史 経歴
今や日本長者番付TOP5には毎年必ずランクインしている三木谷浩史さん。
言わずと知れた楽天の創業者です。
三木谷浩史さんは、1965年に神戸大学教授の父(三木谷良一)の元に生まれました。
小学生時代に家族が渡米したこともあり、アメリカで2年過ごしています。
また、三人兄弟で兄は、東京大学を卒業してバイオ研究者、姉は、徳島大学医学部を卒業後医師になっています。
経済学者の父、総合商社で活躍していた母、徳島大学医学部に進み医師になった姉、東大卒で研究者になった兄。超エリート一家である三木谷家
引用:実はADHDだった? 楽天・三木谷氏、”落ちこぼれ”だった子供時代
このようにエリート一家なので、三木谷浩史さんも当然のように中学受験をして名門私立の岡山白陵中学校に入学しました。
岡山白陵中学校は、全寮制の中高一貫校でかなりのスパルタ教育で有名な学校です。
しかし、スパルタ教育がなじまなかったのか岡山白陵中学校での成績は、クラスでビリから2番目になるなど悪化してしまいました。
結局、中学2年で退学をして地元の公立中学、公立高校に進んでいます。
そもそも、三木谷浩史さんは小学生の頃から大人しく授業を聞くことができない子供だったようで、学校でも悪い意味で有名だったそうです。
三木谷氏は、授業中も、大人しく座っていられずにフラフラ歩き回ってしまう子供でした。廊下に立たされることも多く、学校では「立たされ坊主」で有名だったとか。岡山白陵中学に進学しますが、成績は41人のクラスでビリから2番目。
引用:実はADHDだった? 楽天・三木谷氏、”落ちこぼれ”だった子供時代
今では信じられないですが、そんな”落ちこぼれ”だった三木谷浩史さんですが、高校卒業後は1浪して難関大である一橋大学に入学を果たします。
あれほど勉強に興味を示さなかった三木谷浩史さんですが、1浪してまで一橋大学進学をした理由は、どうやら下記のようです。
成績不振に陥っていた三木谷氏は、一時期は料理人を目指して調理師の専門学校に進むことも検討したほどでしたが、一橋大学卒で、総合商社のビジネスマンとして活躍した母方の祖父と「同じ大学に行きたい!」と一念発起し、一浪の末に一橋大に合格。
引用:実はADHDだった? 楽天・三木谷氏、”落ちこぼれ”だった子供時代
三木谷浩史さん自身の口からも一橋大学を進学先に選んだ理由を語っています。
母方の祖父が一橋(当時の東京商科大学)出身で、一橋の学長をされた中山伊知郎先生と同期でした。また、父・三木谷良一は神戸大学経済学部の教授だったのですが、ご承知の通り神戸大は「三商大」(一橋大学・神戸大学・大阪市立大学)の一角です。一橋のリベラルな校風については父から聞いていましたから、それに惹かれた、というのが一橋に決めた最大の理由ですね。
三木谷浩史さんのテニスの腕前は上級者レベルのようで、高校時代にはジュニア関西ベスト16の好成績を残しています。
一橋大学進学後は、クラブ活動に力を入れていたようで部員100人の一橋大学テニス部主将を務めています。
クラブ活動とは言え、100人もの部員をまとめ上げるのはなかなかできるものではありません。
当時の部員からは「鬼のキャプテン」と呼ばれていたことからも主将としての強い自覚を持っていたことがうかがえます。
三隅 テニス部のメンバー、同輩や後輩たちは、ゼミであなたのそばに近づかなかった(笑)。
三木谷 ええ、「鬼のキャプテン」と言われてましたから(笑)。
三木谷浩史氏は学生時代、テニス部の「鬼キャプテン」として名を馳せましたが、これは我々の代に関東大学リーグの「三部」から「四部」へと「降格」してしまったのが原因です。責任感の強い三木谷氏は、何とかこの降格を挽回して再度「三部」へ昇格しようと、部員の反感を覚悟しながら「鬼キャプテン」を演じたのだと思います。
そんな主将の経験が今の楽天経営に役立っているとも発言しています。
自分のマネジメントスタイルや哲学の原型は、テニス部の主将時代につくられたと思います。当時、一橋の体育会は基本的に自治でしたので、主将が社長みたいな役割なんですよね。僕の頃は部員が100人くらいいましたので、100人の中小企業の社長のような感じです。財政的な運営から、チームの強化策、練習スケジュール、施設のマネジメントに至るまで、主将が全部責任を持っている。会社との違いは、利益を出さなくてよかったことくらいでしょうか(笑)。
その後、1988年に一橋大学を卒業して日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行します。
日本興業銀行では、あっという間に出世頭となり1991年には同期最速でハーバード大学へMBA取得のため社費留学を勝ち取っています。
社内での出世を目指していた当時の三木谷浩史さんですが、留学中に日米での起業に対する考え方の違いを目の当たりにして考え方が大きく変わります。
「(ハーバードの)同級生に、銀行で出世したいなんて言える雰囲気じゃなかった」
1993年にMBAを取得後に帰国して、日本興業銀行ではM&Aのアドバイザーの仕事をしていました。
その仕事を通じて、偶然にもソフトバンクの孫正義社長、ベネッセコーポレーションの福武總一郎社長、パソナグループ創業者の南部靖之社長など、名だたる起業家と知り合いになります。
そして、三木谷浩史さんの中に自分も起業したいという思いが強くなりとうとうエム・ディー・エム(現・楽天)を起業します。
そのときの一番大きなお客様がソフトバンク創業者の孫正義さん。あるいはベネッセコーポレーション社長(当時)の福武總一郎さんや、パソナグループ創業者の南部靖之さんが、私の担当のお客様だったんですよ。なぜかアントレプレナーばかり。そういう方たちからも刺激を受けました。そんなこともあって、自分でやってみたいという気持ちが募っていって、阪神・淡路大震災をきっかけに、1996年に起業しました。
楽天の営業はうざい?

三木谷浩史さんは、起業する際に戦略を1年以上熟考して、思い描くビジネスモデルが少なくとも100案はあったと言われています。
自ら起業するにあたり、その戦略を1年以上考えました。
当時の楽天は、まだ事業内容も、会社の設立も確定していない状態。少なくとも100案はあった“三木谷メモ”の一案だったネットモールが、最有力の選択肢として挙がっていた。
そんな100案以上あるビジネスモデルの中から三木谷浩史さんが最終的に選んだのがネット通販事業(EC:インターネットコマース)でした。
三木谷浩史さんが起業した1996年のネット通販は、まだ大企業が実験的に取り組んでいる程度で一般的な利用者はゼロに近い状態でした。
また、当時はネットショップを出店したくても出店料だけで数十万、さらに商品を登録したりページを更新するごとにお金がかかるので運営費が莫大な金額となり、
中小企業がネット通販を始めることは不可能に近いことでした。
しかし、三木谷浩史さんは、ネット通販事業の可能性を感じており、この分野でこそチャンスがあると思っていました。
日本のインターネットコマースは、大企業が実験的に取り組んでいるものばかりでした。私からすればポテンシャルが高いにもかかわらず、真剣さが足りないと思った。新しいシステム技術もなければ、消費者重視の姿勢もない。ここにベンチャーらしい新たな仮説を打ち立てることができれば、私たちにも大いにチャンスがあると考えました。
そして、1997年2月にネット通販企業としてスタートをしました。
とは言え創業間もないベンチャー企業でしたので、開発者はなんと当時慶応大学生だった本城さんと三木谷浩史さんのたった2人でした。
もともとは97年の2月に私と本城君という慶応の学生との二人で作りました。
引用:「楽天の未来戦略」
本城さんは、プログラミングの知識がなかったため参考書と家庭教師のサポートを受けながら楽天のシステムの開発を進めていきました。
無謀かつ壮大なプロジェクトを任されたのは本城愼之介。本城が実はプログラムを組んだことすらなかったということは有名な話である。『初めてのSQL』という本1冊とプログラムの家庭教師1人を与えられ、内心「無理だ」と思いながらもシステム開発をスタートさせた。
システム開発を進めている一方で三木谷浩史さんと他の社員は楽天に出店してくれる契約(当時の楽天市場への出店料は月額5万円)を集める営業活動に明け暮れていました。
これが残念なことに出店者がなかなか集まらずに大苦戦。
1ヶ月で1000社くらいは契約できるだろうという、トンチンカンな予想だったんですが、実際やってみたら、最初に1000社くらい営業にまわって契約してくれた会社が10社。100社に1社でしたね。しかもその10社もほとんどは身内の会社みたいなところで、無理矢理社長にハンコ押させて契約するというような感じでした。
引用:「楽天の未来戦略」
大苦戦した一番の理由としては、1997年当時はネット通販と言われてもイメージがつかない方が多く、説明をしてもなかなか耳を貸してもらえなかったからです。
そこで三木谷浩史さんは少しでも話しを聞いてもらうためにある裏ワザを思いつきます。
三木谷は走ったり、腕立て伏せをしてから営業先に飛び込む裏技を編み出す。息を切らせ汗をかく営業マンを、簡単に門前払いできる人は少ないと考えたのだ。
問題はどうすればお店の人に話を聞いてもらえるかです。近くの空き地で腕立て伏せやモモ上げをして、汗をかいたまま息を切らせて店に駆け込み、真剣さをアピールすることもしました。
まさに気合と根性の営業方法ですが、この裏ワザの効果もあり次第に楽天市場への出店数は増加していきました。
そして、1997年に出店数13店舗しかなかった楽天市場が2000年には出店数5,000店に達しています。
それが“つかみ”になって耳を貸してもらえる。次第に10件中6~7件は加盟してもらえるようになりました。
わずか13店舗からスタートした楽天市場。2000年には出店数が5,000店舗近くに迫るなど順調に店舗数を伸ばし、急成長を続けていた。
インターネットバブルの波も押し寄せたこともあり、2000年にはジャスダックへ上場。
そして、楽天市場は成長を続け現在では出店数42,601店舗。
さらに楽天トラベル、楽天証券、東北楽天ゴールデンイーグルスなどネット通販にとどまらずにあらゆる分野へ事業を拡大させ、「楽天」は日本を代表するインターネットベンチャー企業になりました。
ちなみに、楽天は今でも新規出店営業をおこなっていますが、「しつこい」「うざい」などの苦情が数多く見られます。
もしかすると、創業時に裏ワザを使ってまでも契約につなげた当時のノウハウが今でも形を変えて受け継がれているからかもしれませんね。。
三木谷浩史 資産

三木谷浩史さんの資産は、フォーブス(2015年)によると日本人第3位1兆440億円だと推測されています。
ちなみに、1位は、ユニクロの柳井正社長、2位がsoftbankの孫正義社長です。
第19位:三木谷浩史 総資産額:87億ドル(約1兆800億円)
引用:IT業界の富豪、世界ランキング 19位楽天・三木谷氏は資産1兆円
三木谷浩史さんが柳井正社長、孫正義社長と大きく違うのは大企業(日本興業銀行(現、みずほ銀行))を辞めて0からベンチャー企業を立ち上げて成功したことでしょう。
社会人経験のないまま、20代前半と若くして起業をして成功した起業家が多い中で、三木谷浩史さんのように大企業を辞めて自分で起業しても成功できるという一つの新しい成功モデルが完成されました。
三木谷浩史さんが証明したこの成功モデルは、これから大企業を辞めて起業する方の大きな励みになるしょう。
私は日本を元気にするためには、大企業出身者がもっとたくさんスピンアウトして、ベンチャービジネスを手がけるべきだと考えています。そして大企業からのスピンアウトを増やすためには、誰かが「成功」する必要があると思うのです。
その意味で、興銀出身の三木谷浩史氏がベンチャーで成功したことは、後に続く人達に大いなる勇気を与えてくれたと思います。
また、三木谷浩史さんは、お金についてもこのような発言しています。
「現代社会において最大のリスクは、人生を後悔することだと僕は思うんです。金銭的なリスクなんて、ある意味大したことはない。」
引用:『日経ビジネス アソシエ』2002年11月号
日本興業銀行の出世頭だったにもかかわらず起業をした三木谷浩史さんらしい発言です。
また、兵庫県出身ということもあり、起業のきっかけの1つとして1995年に起きた阪神大震災も大きく影響しているようです。
「もし明日、地震が東京に来て、自分が死んだら、すごい後悔するなって思いましたね。何かをやり遂げずに死んでしまうのが、たぶん一番のリスクじゃないかと思ったんです。やりたいことをやらずに、悶々とした状態で時間を過ごしているのに耐えられなくなったんです」
引用:夢を追う人たち(第6回)
稼ぎたいからではなく「何かをやり遂げたい」という意思で起業したことが分かります。
三木谷浩史さんは創業当時の心境をこう語っています。
どうすればもっとよくなるか、何か新しいことはないかと常に好奇心を働かせていたからすごく面白かった。
楽天 英語

三木谷浩史さん率いる楽天は、2010年に突然、英語公用化を決めました。
この決断は、三木谷浩史さんの独断で行われたようで狙いは、楽天が日本だけでなくグローバル市場で通用する会社にするためだと言われています。
「英語公用語化」の話が出たのは、2010年の1月だったと思います。楽天の新年会で、(会長兼社長の)三木谷(浩史)が、「今年はグローバル元年だ」「英語を公用語にする」と言ったのです。ただ、新年会のお酒の入った席だったものですから、「冗談半分なんだな」というふうに受け止めました。ところが、5月1日からプロジェクトを立ち上げて、社内公用語を英語にするという発表が、全社員の前でありました。
その結果、楽天社員の昇格条件の1つとしてtoeicの点数が重要視されるようになりました。
具体的には、役員クラスでは800点以上。一番下っ端の社員ですら650点以上という高いtoeicスコアが義務付けられました。
ちなみに、役員クラスではtoeic800点以上のスコアをとらないとクビになるので皆必死で勉強したそうです。
社員の中にはどうしても英語が苦手でスコアが伸びない社員も400人以上いたようですが、これらの社員には三木谷浩史さんが直接このように話しかけたそうです。
「英語は将来必ず使うことになる。習得のために会社はあらゆるサポートをする。だから、がんばってほしい――」
そんな三木谷浩史さんの励ましと楽天社員の努力もあり2010年に全社員平均点526点のスコアが今では、800点に達しました。
英語の公用語化を決めた最初の全社員平均は526点でした。最新データでいうと全社員の平均は800点に達しました。
今では、楽天への転職にはtoeic800点以上が必須条件になっています。
引用:楽天株式会社: 中途採用
【楽天の英語公用語化】Englishnization
海外の優秀なエンジニアを採用できることで、三木谷浩史さんが社内英語公用化を進めた一番の理由である「グローバル市場で通用する会社」により近づいていると発言しています。
現在、日本のエンジニアの採用の70%は外国人です。彼らは日本語をまったく話しません。インターネット企業は技術がいちばん重要です。ただ、日本でコンピュータサイエンスを専攻している卒業生は、だいたい年間2万人しかいません。それに対し、アメリカは約6万人、中国は100万人、インドは200万人いるんですよ。だから何百万人のプールから人を雇うのか、それとも2万人のプールから雇うのかによって、競争優位が全然変わってきます。
もしかすると楽天の英語公用化は優秀なエンジニア・プログラマーを楽天に呼び込むことが最大の狙いだったと言えるかもしれませんね。
三木谷浩史 プログラミング

三木谷浩史さんはプログラミング教育がとても重要だと頻繁に発言しており、2013年4月に行われた「第6回 産業競争力会議」では、プログラミングを義務教育で教えるべきだと提出した資料で述べています。
引用:ITを活用したビジネスイノベーション(三木谷主査)P16
また、三木谷浩史さんは自身の大学時代にコンピュータをもっと勉強しておけばよかったと振り返っています。
まだ今のような形でのITがなかったのですが、コンピューターの勉強はしておいてもよかったかなと思います。
引用:楽天創業に至る自由な発想は一橋のキャンパスで育まれた<後編>>
さらには、これから日本国民のプログラミング力を上げていきたいとまで発言をされています。
次はちょっとプログラミング、日本国民のプログラミング力を上げるというプロジェクトを。
2019年には、ブルームバーグの取材に対し「ITサービス会社に勤務しているなら、コンピューターについての基礎知識は必要だ」と答えており、2019年には楽天の新入社員へ半年間のプログラミング研修を開始しています。
なぜ、ここまでして三木谷浩史さんはプログラミングを学ぶことを勧めているのでしょうか?
あくまで予想ですが三木谷浩史さんは2014年より1ヶ月の内1週間はアメリカのシリコンバレーで生活をしています。
シリコンバレーは、facebookやGoogle、PayPalなど名だたる世界的なIT企業が密集した地域です。
ここで生活をするうちに、圧倒的に将来性があるのがこのIT業界だと感じたからだと思います。
月のうち1週間ぐらいは海外に行くことを考えています。主にはアメリカのシリコンバレーの家で過ごすことを考えています。
事実、プログラミングを学びさえすれば、お金がなくてもパソコン1台でwebサービスが立ち上げられてビジネスができます。
仮にwebサービスで稼げなくてもプログラミングスキルがあれば職はいくらでもあります。
